2014年12月14日日曜日

事始別館 9-2 達成された安全は人の眼をひかない(2)(2014.12.)



 なぜ、なんとかなっているのか?なぜ、事故が起きていないのか?レジリエンスとは?





成功事例に学ぶ

この数年「レジリエンス(弾力性、柔軟性,,回復力などと訳される)工学」という言葉がヒューマンファクターを研究する研究者から提案されています。その一番の特徴は、安全を「失敗から学ぶ」だけでなく「成功事例に学ぶ」という面を強調していることです。

「物事がうまくいかない理由をいうのは、比較的容易なところが問題である。・・・しかし、物事がうまくいく理由を言おうとすると、必要性と十分性だけを求める普通の論理的な説明では表現できない。偶然や状況、個人の要因が非常に大きな役割を果たしているからである」(Reason:組織事故とレジリエンス(Human contribution)

(複雑なシステムにおける人間の位置は)システムの安全を脅かす要素と考えるのでなく、本質的に危険なシステムをなんとかやりくりして、効率性、生産性、コストカットの圧力ともおりあいをつけながら、安全に運転している存在、と考える」(Hollnagel

 これまでの安全対策は、失敗から学ぶ、ということを旗印にしていました。それはそれで悪いわけではないのです。しかし、事故やインシデントがおこった後どうなるかと
考えると、ともすれば・・・・・・新しいマニュアルが増える・・・仕事がやりづらくなる・・・かえって違反が多くなる・・・「マニュアルを覚えること」が目標のようになってしまいます。(掲示板参照)「匿名さん」の投稿以降をお読みください)


 確かに改めて問うとマニュアルが目標とは誰も言いませんが、実際にはマニュアルにさえ従っておけば・・と、どちらかというと仕事の発想が委縮していきがちです。

二つの
安全


 「してはいけないこと」を学ぶ safety 1
 

 「したほうがいいかもしれないこと(なんとかやりくりしていること)」を学ぶ safety 2

一つは、マニュアルがあって、それに従って成し得た安全、つまり事故が起きれば「それに違反したから」おこったのではないか?と考えるもの。もう一つは(マニュアルに記述がない。つまり)想定外のことがしばしばおこっているが、現場の柔軟性、応用力でなんとかやりくり出来ている安全。こちらの方が多いのではないか?事故が起きていないからと言って、想定内のことだけが起きているわけではないだろう、という考えです。
 言い方を変えると、前者は「失敗を減らして安全」、後者は「成功する率を増やして安全」ということです。

 後者が機能的に働いている状態をレジリエントといい、「なぜうまくいっている(事故にいたらない)のか?」を現場に入り調査し、仕事の実態・実相を知ることが必要なのではないか?そこから学ぶものも多いのではないか?「事故がないとき」だって必ずしも「順調だった」わけではないだろう,と考えるのです。
 ですから、病院であれば、最新の機械と、多数の手作業の業務が入り混じり、複雑な人間関係や仕事の対象である患者さんの自身の状態も不安定・・・というこみいった状況のなかで、結果的に「"柔軟な対応"が成功しているとき、それを褒めるだけではいけない」(芳賀)といいます。

 本当はそこにリスクがあるのではないか?現場でどのような調整(アジャストメント)が行われているのか、どのような行動パターンがとられているのか、と考え確実性を増す様な「手を打つ」、このことが求められているのではないか?それが「失敗から学ぶ」という後ろ向きの対策から一歩踏み出すこと(第2の安全)ではないのか?というのです。図はホルナゲル博士の講演から。





レジリエンスとヒューマンファクター

 数年前に私自身が「レジリエンス」という言葉を始めて知った時、「弾」という「日本語」があったりしたので、面白そうだなとは思っていましたが「ヒューマンファクターズ」をこえる新しい概念とも思いませんでした。

 多分、学問というのは「あっちに振れたり、こっちに振れたり」、それこそ微調整しながら進歩していくものですね。私自身は「もっと、人間に頼るヒューマンファクターズ」を考えていました(講座28)ので、「少し、人間の側に振れた(戻った)?のかな」と考えました。

 同じように考えているHF研究者もいるようです。

 「そもそも、ヒューマンファクターズは、人間の存在を中心に据えて周りを見ていこうとしている学問で、人間の機能や効果をどう捉えるかという意味で、限定されるものではないと考えています。人間の機能や限界、効果(影響)の捉え方をどう考えるかの違いであったり、補完的・追記的な部分の説明関数として、「レジリエンス」も出てきているのだろうと思っています。リーズンの本の原題も「human contribution」で、人間を性善説から捉えています」(Hさん 私信)


 当院の事例だけでなく、想定されたマニュアルでは対処できない時(そもそも、まったくマニュアルの通りなんてありえません
)、場合によってはそれに「違反したような」現場の対応で「安全」が保たれた(目的を達した)例はたくさんあると思います。


★(2012.2. IG部会のレポート参照)3.11.のJR東日本運行列車のマニュアルに沿わない行動で人的被害「ゼロ」のケース、基地を失い通信も途絶し、孤立した海上保安庁ヘリが独自に救助活動を継続したケース(あとから怒られたらしい)、立ち往生したコンテナ列車の食料を(荷主の同意のもと)食糧支援に転用したJR貨物の機転、病院の体制を災害救急に切り替え、被災者に対応した例、などが報告されています。

必ずしも「失敗」や「事故」がなくとも、「安全を脅かす要因」や、それを「日常の中で何とか調整している人間の対応」を(事故になる前に)学んでいくことはレジリエンスであれなんであれ必要だと思います。

 

★昨今、「コンプライアンス」が云々されたことがあります。しかし、コンプライアンスというのは、そもそも「社会に期待された行動をすること」という意味で「=法律を守ること」ではないそうです(郷原氏)。法律でも現場のレジリエントな行動にはガチガチの法律を適用しないという考えかたもあるようですが、いまだ少数派のようです。

「現場で対応しすぎる」問題点やReason教授の「余人をもって代えがたい人々」については引き続き考えたいと思います。


この項かきかけです

事始・別館4「火事場の馬鹿力か?レジリエンスか?」もご覧ください
*参考書「レジリエント・ヘルスケア」2015(E.ホルナゲル 「解読中」)
*参考書「ヒューマンエラーを理解する」2010(S.デッカー)













事始別館 9-1 達成された安全は人の目を引かない(1)(2005.7.)


2005年にHF講座に以下の文章を掲載しました(番外13が、このテーマはこの数年、医療分野の安全でも取り上げられる「レジリエンス」とも共通するように思います。ひきつづき、考えてみます(9-2、9-3,9-4
 
達成された安全は人の眼をひかない(1)(2005.7.)

~9999人が正しいことをした~


 いわゆるインシデントレポートは(多かれ少なかれ)何かが起こってしまった、その当事者は(多くは)自分だ、というわけでどんなに無罰報告制度だといっても提出を躊躇させるものがあります。


 ところが、事故発生の確率が10000回に1回として、じゃあ起きなかった9999回は、誰かが何か正しいことをした、(予期せぬ)緊急の事態が発生したが優れた判断と技量で事なきを得た、と考える発想があります。そこから得られるものだってインシデントレポートや事故の教訓と同等かそれ以上の価値があるのではないか、という考え方です。


 その特徴を考えてみます。全くの思いつきですが・・・。

1) 良好事例は積極性を呼ぶ

 インシデントや事故の分析から得られるものはどちらかというと(もちろん機器やシステムの改良もありますが)「あれをしないように」「○○にならないように」といった「後ろ向き」「規制的」なものになりがちな印象があります(場合によっては、より働きにくくなる)。ところが良好事例からもの考えるということは、もっと人間の能力や特性を生かす、という意味でより組織に「積極性」を与えることが出来そうです。


2) 良好事例のほうが多い

 当然、「何も起きなかった」良好事例のほうが多いわけですから教訓となる事例が必ずあるはずです。


3) マニュアルにない(あらわすことができない)経験の共有は組織の潜在力となる可能性がある

 失敗経験の共有(失敗から学ぶ)も「安全・確実」に事をおこなう、「危険をさける」という意味でもちろん大切ですが、「成功経験」「良好事例」の経験を共有することで何かが起きたときにも希望を最後まで捨てずに頑張ることが出来るかも知れません。工学系の話ですが「失敗学」の畑村先生は成功例を「闇夜の灯台」と表現しています。私達の世界だって、(いまや「エビデンス」ばやりで、大規模臨床試験でなければ価値がない、かのような風潮がありますが)「成功例」「症例報告」の存在は、すくなくとも「あきらめない」という根拠になりますし、悩める現場の人間(医療者ばかりでなく患者さんも)を勇気づけることもできます。


4) 「あつめること」が以外と難しいかもしれない

 日本人的感性からすると、自分の成功経験を積極的に他人の前で話すようなことは(「自慢」とうけ取られることを嫌い)あまりなじまないかも知れません。その結果ケースが集まらないおそれもあります。「良いことをした自分自身」も気が付いていない場合だってあります。


HFの眼(耳?)をもって聞き出す


 また、あまり時間をおくと「枝葉末節」が取り除かれ、格好のいいところだけが(本人の)記憶に残ってしまうことになります。そうすると本当に単なる「昔の自慢話」になってしまったり、「○○には◎△!」といった短絡的な教訓として記憶に残ってしまうおそれがあります。ですから記録する私達は、どういう事態が発生し、どんなふうにして気が付き、そのときの内面的な感情も含めてそれをどのように理解し、どんなふうに解決しようとしたのか?をHFの眼(耳?)をもって聞き出す必要があります。


「達成された安全は人の注目を引かない」しかし・・・


 達成された安全は人の眼をひきません。

 滑走路では航空機が2分をおかずに離着陸を繰り返し、JRの遅延は全国平均1分以下だといいます(首都圏ではより少ない)。私達の職場でも何気なく手術室にはいり、何気なく(時々はバタバタしますが)病棟やICUに戻ってきます。

 しかし、このことは100%確立されたシステムが当たり前に稼働している、ということを意味しているのではありません。そこでは(「危険の海」の中にあって)だれかが(9999人)正しいことをしたから、正しい(よい)判断をしたから、飛行機は無事着陸し、新幹線は定時[1]のまま「死亡事故ゼロ」を続け、手術室から患者さんは戻ってくるのです。

 「達成された安全」はともすれば見過ごされ、誰からも注目されることはありません。しかし、その中にもインシデントや事故の分析以上に得られる教訓があるはずです。エラーとその要因ばかりを追っているように思われがちなヒューマンファクターズですがこういう「積極的」な見方もあるようです。


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 「ご苦労さん」「大変だったね」という前に・・・・

 当直や夜勤をしていて、夜中に患者さん(の状態)が落ち着かなかったり、急変が起こったり、緊急手術になったりということはそれ程珍しいことではありません。朝までには何とか落ち着いたとして、朝、現れた管理者がいう言葉は(まあ心がこもっているかどうかは別として)こんな言葉です。そして、大抵それで終わりです。管理者としては「結果的に何も起こらなかった」からそれでいいのです(連載の「管理者の・・・」も読んで下さい。本当はそれ以上に興味はない事が多い?)。しかしこんな他愛のない「成功経験」からだって得るものはあるはずです。「どうして気がついたか?」「急変したときにまずなにを考えた(しようとした)か?」「人数の少ない夜勤(当直)人数でどう対応したのか?どう動いたのか?(ワークロードマネージメントですね)」「もっと何があればよかったと思うか?」などなど話してもらう事はたくさんあります。[2]

 事故やインシデントの例をあげ「○○に気をつけて下さい」も大事ですが現場の小さな「成功例」「危機脱出例」「失敗回復例」を率直に報告してもらうのも、チームのパフォーマンスを強化することにつながります。


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[1] この原稿を書いた後で福知山線の事故がありました。「定時への圧力」や「回復運転」が問題になっていますが、そこで働く人間に負担がかかるような形の「定時運転」はエラ―の誘因となることはあきらかです。ここではそれに耐えて頑張れといっているわけではありません。それほど負担のない日常業務の中でも、想定外(内)の突発的な危険因子は降りかかっており、それを想定しています。

 福知山線事故に関しては、「運転士のスピ―ドオ―バ―が原因か?JR西日本の体制か?」などという漠然とした話ばかりでなく、台車や異常な共振などのハ―ドの面からもきちんと調査して欲しいものです。


[2] 実は一度だけこういう調査をしたことがあります。真夜中にあるトラブルが発生し場合によっては最悪の場合一度に数名死亡となり得た事態でした(結果的には無事)。その調査をする時に、VTAはよく知らなかったのですが横軸に時間、縦軸に人、患者、物をおき、その時何が起き、どんなふうに感じ、どのように行動したか、そして相互の関連は?というような記録を作っていったことがあります。それをもとに(ほんの少し脚色した?)ドキュメントをつくり院内LANに載せました。また、「良いことをしたときにはみんなの前で誉めるべきだ」と院長に答申して、その時の夜勤チーム(看護婦ばかりでなく、駆けつけた技師やボイラーマンまで)を公の場で表彰してもらいました。教訓としてここで書くことの出来るような「1.何々・・」とはなりませんが、ある突発的事態が起きたときの状況認識、チームの作り方、業務の分担、リーダーシップがうまくいった例だと思います。

 「ご苦労さん」というねぎらいも大事ですが、(表彰もふくめて)「記録(+記憶)に残す」「知識化する」ことはもっと大切だと思います。(そうでなければ、「知らないうちに、みんながよくやってくれて、結果的に被害が何も起きなかった」ことなど管理者は簡単に忘れます)(2005.7.記事アップ)


2014年11月17日月曜日

講演会のおしらせ 2014.12.13. 「ヒューマンエラーと懲戒処分」




所属しているMLから講演会のお知らせがありましたので転載します。
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日本人間工学会安全人間工学研究部会、産業組織心理学会作業部門研究会、日本認知心理学会安全心理学研究部会と共催で研究会を開催致しますので、ご案内申し上げます。
日時:平成261213日(土)1400分~1630
場所:お茶の水女子大学 共通講義棟2号館102(〒112-8610 東京都文京区大塚2-1-1
テーマ:ヒューマンエラーと懲戒処分

概要:
 国道交通省の航空局は、「誠意を持って働いている中でおかしたエラーについては報告させて対策をとることを優先し,人事処罰等の不利益扱いは行わない」という方針を航空各社に求めています。航空大手では、日本航空がいちはやく2007年にヒューマンエラー非懲戒の方針を宣言したのを初めとして、全日空などでも同様のポリシーを定めています。鉄道業界でも同様の検討を始めた事業者もあります。

 このような方向性は、安全問題の専門家の間で何十年も前から共有されてきた「ヒューマンエラーは原因ではなく結果である」という考え方に一致するもので、エラーをおかした本人からの正直な報告にとって重要な要素ともなります。
 しかし、一方で、組織の人事を預かる部門の立場からは、非懲戒では社内の規律が保てないという意見も多く,現場の安全担当部署は社内の意見をとりまとめるのに苦労をしているのが現状だとも聞きます。

 本研究会においては、このようなヒューマンエラーと懲戒処分の関係について、現場の実態について作業部門に関連する話題提供、人事部門に関連する話題提供をいただくとともに、ヒューマンエラー非懲戒の問題に深い関係のある組織的公正について作業部門からの知見、さらに、法律家の立場の知見等を踏まえつつ、部門横断的に議論を深めたいと考えています。

司会:立教大学現代心理学部 芳賀 繁
講演者:
日本航空()767機長 和田 尚
中部電力()知多火力発電所技術課長 榎本 敬二
東海大学法学部 教授 池田 良彦
慶應義塾大学大学院経営管理研究科 准教授 林 洋一郎
参加費は無料、参加申し込みも不要です。
 



 
 

2014年11月3日月曜日

事始別館7  フォロワーシップ



あなたには「頼りになる同僚」「いざというときにあてになる後輩」はいますか?
あなたのチームは「生き生きとまわって」いますか?

講座24でリーダーシップを考えました。 研究者によってリーダーシップにはさまざまな定義がありますが、このHPでは「リーダーシップ」を「チームの目標達成に向かって、チームに影響を与える行動や働き」として話をすすめてきました。
具体的なリーダーシップ行動は 1)展望を示す 2)方向性を示す 3)チームが協働する状態を作る 4)チームを維持する 5)チームのレベルを維持する 6)メンバー個々のニーズを知る、などさまざま言われています。

 しかし、そもそもメンバーがいなければリーダーもリーダーシップも存在しません。そして、あなたの発揮するリーダーシップも「頼りになる後輩」の存在があってはじめてチームとして廻っていくことになるのです。
と、いうわけで、今回は チームメンバーである「フォロワー」について考えます。

フォロワーシップとフォロワー




フォロワーシップとは、ここでは「部下の側から生じる管理者のリーダーシップへの影響」と定義します。

 リーダーはチームの目的を達するためにメンバーに、いろいろな働きかけをします。そして目的に向かって上記のようなリーダーシップが適切に発揮されたとき、メンバーは納得し、「共感」が生まれ、自発的にチームのために目標に向かう行動が生まれます。これをフォロワーシップといいます。

 ところが地位や権力を背景にして,場合によっては「報酬」や「取引」、「命令」「脅し」などの手段を使って、いうことを聞かせる、というリーダーからの働きかけもあります。これをヘッドシップといいます。従うものを単に「フォロワー」といい、リーダーシップが発揮された場合に得られる、自発的な「フォロワーシップ」とは区別されます。

 また、単に「どうすればいいんですかー」とか「ネットで安直に”こたえらしきもの”を探し飛びつく」などといった、問題に主体的にかかわらないタイプも「フォロワー」といえます。
 
この関係を簡単に書くと以下のようになります。
リーダーシップーー納得、自主、自立、共感ーーーーフォロワーシップ 
ヘッドシップ  ーー地位、物、脅しーーーーフォロワー

ヘッドシップが必要な場合もあることはあとで述べます。

リーダーシップとフォロワーシップ




リーダーの資質
リーダーシップを発揮しようとするリーダーに必要なのはどんな資質でしょうか(講座24)


1)「仕事の全体像」を把握していること:技術的な(仕事上の)知識を何でも枝葉末節まで「一番知っている」必要はないと思いますが、全体像はきちんと押さえていることが必要です。仕事の知識も「平均以下」では「論外」です。

2)コミュニケーション能力:コミュニケーションに関しては昨年のCRMセミナーで述べました。

3)状況認識

4)リソースの準備と活用

5)協調性とワークロードマネジメント

6)意思決定:最後はきちんと(自分で)「決断」する


 これらを身に付けた「生まれついてのリーダー」などほとんどいません。また、私や貴方のように、「歳をとったから」、「経験が多いから」といってリーダーシップが身についているとも限りません。ですから、私や貴方のような「凡人」は「目的をもった訓練」で、良い・有効なリーダーシップをなんとか身に付けることが必要なのです。


フォロワーシップ  



リーッダーシップを分担する

 リーダーシップはリーダーだけが発揮するものではありません。チームの目標に向かってメンバーも場合によってはリーダーシップを発揮し、その場合にリーダーもフォロワーシップを発揮していくことにより、チームの目標達成に向かうパフォーマンスが向上していきます。
 FAAMRMハンドブックに「リーダーシップの分担」という項があります。正式のリーダーがいてもメンバーの一人一人が時と状況によっては責任を分担すべきだ、というのです。これは我々の現場でも同じです。


 「私のほうが詳しいのに・・・」と密かに不満を持ちながらリーダーの「ヘンな指示」に仕方なく従う、なんて事じゃなく、「○○はこうしたほうがいいと思います。私、このこと調べてありましたので・・」と明るく提案し、リーダーシップを分担する、ということです。

 また「リーダーシップの分担」をマネージメントできるリーダーはリーダーシップがある、ともいえます。「権限の移譲」はリーダーシップにとって重要な要素だからです。こうして「チームがまわっていく」ことによりチーム全体のパフォーマンスが上がっていくのです。

リーダーへの信頼の上に客観的に見る力

 リーダーだって万能ではありません。人間ですからエラーもしますし、疲労や内外のストレスからも無縁ではないのです。 ですから、いつでも、なんでもリーダーについてさえいけばよい、というものではありません。リーダーへの信頼の上に、良質な見解、率直な懸念・疑問を表現できること。よい情報も、悪い情報もタイミング良くリーダーに報告できることが、求められます。

 フォロワーシップを発揮していくためには、自立していること、自分の見識や倫理観をもっていること、能動的・自覚的にリーダーについていく、という選択をしていることが必要なのです。


時に必要なヘッドシップ の行使




 では、リーダーによる命令的なコミュニケーションとしてのヘッドシップは常に「悪」なのでしょうか?(共感や納得を得るための)説明をしている余裕がない時、切迫した事態のとき、目標構造のレベルを明らかに取り違えているときなどには、ヘッドシップを発揮して、きっちりと命令する必要があります。リーダーシップは時に使い分ける必要があるのです。
リーダーの権威、権限はそのためにもあるのです。

以前のCRMセミナーのTAG(権威勾配)の資料も参考にしてください。
 

(まだかきかけです)
          



2014年10月19日日曜日

事始別館 2-2 注意が「一点集中」になってしまう



私たち人間の「注意力」は「目立つものに引かれる」という特徴があります。そして、「一つのことに集中すれば周囲が見えなくなる」ということも・・・(本館の「HF講座」)



「注意」を引くべく目立たせようとするのでしたら、それはそれでいいのです。大事なところの色を変えたり、警報を真っ赤なランプにしたり・・・心理学的にも有効なのでしょう。


ところが、前項(別館 2-1)のように医療機器の進歩で、本来チームで適切に分散・活用されるべき注意力が、過度に「一点集中」させられてしまう状況が多くなっているのではないか、と感じます。そしてそこには人間の注意力の限界や特性、使用される現場の状況といったヒューマンファクターへの配慮がないまま、新しい機器で「出来るから始める」というふうになってはいないのか、という不安です。


「舞台設定」


今回(2-1)は内視鏡(大腸)の検査・処置に伴う事故例を話題にしました。しかし、他にも同じような「舞台設定」はあります。カテーテルインターベンション、内視鏡手術、 腹腔鏡、胸腔鏡による手術、ダビンチ(ロボット)手術(まだ見たことはないですが)、顕微鏡手術・・・・。


上部消化管の検査でも、たまたま自分の関係している患者さんで高齢でしたので覗いてみたら、呼吸が止まりそうになっていた、などということもあります。


「一点集中」を加速する要因


「皆がそれぞれの分担した任務をきちんとはたしていれば、そんなことはないはず」。私が問題化すると皆そう言います。「ちゃんとすれば・・・」と。
ところが人間はそう機械のようにはうごきません、「うまくいって欲しい」「早く終わって欲しい」と願うほどある一点に集中してしまいがちです。これが時に弱点にもなります。 


1.   周囲は暗く、画面だけがギラギラ明るいなど、物理的環境。注意が引き付けられるだけでなく、いざ見ようとしても「暗順応」が遅くなる。


2.   トラブルを起こしている(順調に進んでいない)とき、予定外の事象が発生しているような時。メンバーの意識が皆「術者」(そのことだけに集中)になってしまう。


3.仕事の分担と協調が不適切
 誰が何を見ているか?特に2-3人でする仕事の場合、分担など打ち合わせが不明瞭になりがちです(「二人は危ない」参照)

 人が足りない、という言い方もときどきされますが、「配置」の必要を認めないから配置がされないとも考えられます。患者への評価が実際にはされていないから、準備(人)もされていないのではないかと。
 評価は病巣の評価よりも、全身状態の評価をすべきです。例えば「大腸がん疑いの女性。83歳」というプレゼンよりも「ヨロヨロのバアチャンが、2日前からイレウス」と言った方がわかり易く→警戒することになります。


4.モニター表示の錯覚など
 例えば内視鏡をしていても、大抵は正常に推移し、何も起こりません。心電図や酸素飽和度のモニターを見ていても、見ていなくとも結果は同じ。だから?つい(悪意はなくとも)「見ていない」 ことが多くなります。



10分前の値?:
 モニターは記録は残りますが、リアルタイムでみて、判断していることに価値があります(あとは警報です)。事故の記録の分析が目的ではありません。CVRではないのです。

 そこで大事なのは「表示されているのがリアルタイムの値かどうか?」ということです。

 間歇的に測定されるものは、その「過去の測定値」がある時間そのまま表示されています。その表示が見えるので「まだ○○だ。大したことない値だ」と,せっぱつまっている場合ほど、都合よく解釈して安心してしまうことがあります。その表示が実は3分とか5分前の値だったりするのですが、そのことに気がつくのに案外時間がかかるのです。私もだまされることがしばしばです。

 これに対してリアルタイムで表示されているのはパルスオキシメーター、心電図、動脈カニュレーションがされていたり、トノメトリーであったら動脈圧、呼気終末炭酸ガス濃度などでしょうか。

デジタル表示とアナログ表示 :
 もうひとつは表示されている生体情報(=安全情報)モニターが「数字」というデジタル表示か、「波形(+数字も表示)」というアナログ(だからリアルタイム)表示か、という問題です。一般には間欠的表示である「デジタル」よりも、推移も感じられる「アナログ」表示のほうが、とくにクリティカルな場合に「状況認識」がしやすいと言われています(ハイテク機に乗るベテランパイロット)。 



コンプラセンシー:モニターを装着するのはよいのですが、きちんと装着されていたか?という基本的な問題もまたあります。装着だけして、見ない、有効かどうかを考えない使用法(センサー類装着)も「いざ」と言う時に役に立たずあせることになります。付けてある、という安心感(自己満足)


誤報慣れ
 生体に装着するセンサーは、他の機器の影響を受けたりしたり、装着部位の問題から必ずしも安定して表示できているわけではありません。最も大きな要因は体動で、かなりの頻度で「警報」が鳴ることになります。鳴っては「警報の一時解除」ボタンを押す、という繰り返しになります。毎回、アーチファクトであることを確認しなければなりません。これも「99.99%は、なんともない」のです。その結果「またいつものあれだよ」とか、「ちょっと測定できていないだけだ」と都合よく解釈してしまうことになります。

間接ビジランス(監視業務)の問題
 モニターなどの器械を介して見ている、ということはビジランスにとっては間接的になっている、ということになります。手がかりが「ある値(デジタル)を超えたとき」とかに限定されて表示されることになります。センサーは一つか二つです。「予兆」とかいった、かつて現場に期待された働きができなくなっているのです。例えば「顔色・表情をみる」などというアナログな、しかし総合的な情報は伝わらなくなっています。


本来の「注意力」を取り戻すために


 「注意が一点集中」してしまう状況は、暗い環境にある明るい画面ばかりとは言えません。原因が「感覚器としての眼」の問題でなく、「脳の注意資源の配分」「チームの注意資源(協働)の配分」の問題だからです。明るい環境でもおこります。

☆「錯覚の科学」(文芸春秋)に注意資源の配分の問題として、有名な「invisible Gorilla」のほかに、えひめ丸が目に入らない潜水艦や、航空のヘッドアップデイスプレイ(注)のために滑走路誤進入に気がつかない例、自動車運転時に目に入らないバイク、想定されていない病気(や異物)を見逃すレントゲン読影など、「見えているのに、見えない」例が載っています。

警報の工夫
 音・光の警告の工夫(警報を切ってはいけない)、警報(モニター)の多重化より多様化により警報(情報)の「信頼性」を向上させる。これは「人」による情報でも同じ。悪いほうの情報を基準に考えるのも危機管理の原則。

「STOP&スキャン」

 いったん現在していることを止めて、周囲を見渡し、(場合によってはチェックリストを使用)いくつかの基本的事項を確認すること、をいう。
その時、医療であれば画面・モニターより患者を自分の眼でみる、ことが必要。

共同でなく「協働」:

 仕事の分担と責任、重なりを再確認。一般的にはリソースを集中させるのですが、場合によってはあえて分散させることも必要。




 良好事例:「何か変だ」宣言


良好事例を紹介します。「注意の一点集中」だけではありませんが「一点集中」を予防し、問題を解決していったケースです。


 「HF講座番外その22に掲載されている手術時のトラブル発生時の、危機回避例です。
 術野外で発生したトラブル(当初は原因不明)のために、術中突然低血圧となり、麻酔担当医が、「何か変だ宣言」をし、術者に術式の変更(多部位当該部位・簡略化)を提案し、原因を探索しながら手術をする・・・という経過です。


(以下引用)原因探索チ-ムと現状維持チーム(全体をモニターしたり、とりあえず手術を続ける)を分ける・・・

「何か変だ宣言」は良いのですが、場合によってはみんなが「そのこと」に一点集中してしまうと新たなトラブルにむすびつきます。原因探索をするチ-ムと手術を続けたり(止めてしまうと危ないこともある)、患者全体をモニターしたりするチ-ムの役割分担を再確認すること(「○○さんはモニターを読み上げて!」とか、「術者はゆっくり手術を続けて」など)が必要です。(引用おわり)


 手術中に「何かおきている」ことを比較的早期に発見し、チームに宣言。手術室のチームが危機の認識を共有できたところで、全員が「一点集中」しないように、業務の割り振りをおこなうことが出来た例です。


注 ヘッドアップデイスプレイは航空機だけでなく自動車にも応用されつつありますが、人間は「脳で見ている(認知)」ことを忘れているような気がします。


                                     *              *                *


今回はチームが「注意の一点集中」に陥ってしまう問題を考えました。この連載にご意見・ご教示をお願いします。





   





2014年10月15日水曜日

事始別館 5 多忙な社会の「省エネ思考」(ヒューリステイック)  読書録から



多忙な社会の「省エネ思考」(ヒューリステイック) 読書録から

行動科学ブックレット「決める~意思決定の心理学~」中西大輔(行動科学研究会)著

「行動科学」という言葉を大学で心理学を教えている友人(元管制官)から聞いたことがあった。ネットを見ていたら偶然この本が目にはいった。「薄い」(約60p)のでちょっと読んでみよう、という気になった。で、注文。

わたしたち(人間)は忙しい!?

私たちは、朝おきてからいつものように病院に来るまでだって、否応なくいくつもの意思決定(判断)をしながら来ている。何時に出るのか、どこを通るのか、今日は何曜日だからこの道は混んでいるとか、「あっ、黄色になった。仕方ない。止まるか」・・・など。いちいち意識はしないのだが、その場その場で、ということも含めて意思決定をくりかえしている。病院に来れば、診療は「決める、意思決定」そのものだ。「Aという薬にしようか、Bにしようか?それとも手術か?」「入院させようか?外来で診れるか?」

ところで、人間の意思決定というのは、どの程度論理的なのだろうか?というのがこの本のテーマだ。

私たち人間は使える能力に限りがあり、使える時間にも限りがある。いつもすべての情報を集め、ゼロから論理を積み重ねることなど不可能だ。現場の時間進行と、思考の時間進行が同期しないと(間に合わないと)どうにもならない。「よく考えること」自体が害になることだってある。

ところが、人間は(何か決めるに際して)「分かってしまわなければ」不安なのだそうだ。ところが全て分かることなど現実の生活では不可能。そこで「とりあえずわかる(わかったつもりになる?)」方法として我々は知らず知らずのうちに「省エネ」思考法(ショートカット)を身につけた。それがヒューリステイックと言われるものだ。場合によっては直感といってもよいが「とりあえず、こう考えておこう」「こんなことだろう」というものだ。ヒューリステイックは(結果がビンゴの時には)とても便利な思考法なのだが、一定の方向に歪むことがある。それがバイアスと言われるもので、場合によっては落とし穴になる。「事故」や「失敗」「損失」に繋がる判断をしてしまうというわけだ。

著者は、ヒューリステイックだけでなく、集団や環境・・といったさまざまな要因が私たちの意思決定に影響している、ことを説明する。

主なヒューリステイック(バイアス)にはこんなものがある。

1)  代表性ヒューリステイック:典型的(と主観的に思っている)ケースに判断がひきずられてしまう。

例)猪木さんは息子にプロレスを教えていました。でも、猪木さんは息子の父親ではありません。では、ふたりの関係は?

例)「ビデオカメラどこがいい?」「ソニーならいいんじゃない」

例)ノロが流行って混んでいる冬の午後、外来。「下痢、嘔吐?」「あれだよ、あれ。ノロにきまっている!」患者を見るまえから「診断」がついてしまっている。が、下痢や嘔吐なんてたくさん病気がある。

2)調整とアンカリング:アンカリングというのは錨を下ろすこと。判断が主観的に正しいと思っていること(最初の情報や印象によることが多い)から離れられない。その後の情報も主観を補強するように考える。つまり「その枠内(つまりアンカーの届く範囲内)」で解釈、納得、判断してしまう。場合によっては、こじつけてしまう。「こんなことだってあるさ」

例)「ヨドバシで980円のところ、本日、当店790円」(ヨドバシを基準にしているがヨドバシが基準価格でもないし、安いとは限らない)

例)(想定した診断とあわない症状・データがあるにもかかわらず)「中にはこんな患者もいるさ」「以前そんな患者もいたし」

3)利用可能性ヒューリステイック:たまたま記憶に残っていたり、その時、その場で思い出せることが、実際に「多い」「正しい」と考えてしまう。

例)「あっ、そうだ。この前、先輩の○○先生がこうやってうまくいったと言っていた」(データよりも、身近な先輩の話のほうに現実感や説得力を感じてしまう)

例)最近、読んだことがある文献に出ていた。「そーだ、あれだよ、あれ。あれに違いない」昨日の新聞に出ていたことと似ていたら、もうそれに違いない、と思いこんでしまう。

4)使ってしまったコストは戻らない:ショートカットの判断が途中で訂正に「抵抗」がなければ大きな問題は起きない。ところがドツボにはまることもある。「埋没費用」といわれるものだ。もう使ってしまったコスト(お金、時間、労働、心理、・・・・)にその後の判断が影響されてしまう。「使ってしまったもの」はもとには戻らないのに・・・

例)「ここまで頑張ったんだ。ここで引き返すのは・・・・」と深みにはまる。何十年も前に計画したダム建設や核燃料サイクルが(本当は今や不要・不可能なことが皆わかっているのに)やめられない、ようなこと(まあこれは利権なんかもあるんでしょうが)。

例)麻酔導入時に気管内挿管ができない。麻酔医2人は交代で試みた。でもダメ。そこに「どうした、どうした」と同僚たちがはいってくる。「今度は俺が」「よーし、今度こそ俺が」と・・・。

 本当は気管内挿管をある時点で諦めて、違う方法での気道管理を考えたり、手術を中止(麻酔を中止)して覚醒させる決定をしなければならない。にもかかわらず同じことを続けた結果、声帯浮腫、喉頭浮腫で本当に換気ができなくなってしまった。結果、低酸素血症で死亡。(「麻酔エラーブック」という本に「引き際が肝心」という章があるので参考にするといい。同じ例がネット動画にもでている。人ごととは思われない。当院でもトラブルはある)

(以上は個人レベルの問題だが)人間は社会的動物であるから、「論理」でなく他者との関係や社会的な習慣や環境で「意思決定」が影響されてしまうことがある。代表的なものが「同調」(皆がそう言うなら、違うと思うが仕方ない。皆がそう言うなら、そうかもしれない、と「判断」)とか、「社会的手抜き」(みんなでする綱引きは、人数が多いほど一人一人は力を抜く)とか、「集団浅慮」(みんなで決めたからといって、正しいとは限らない。逆に「イケイケ」となったり、反対意見の人に「同意」を迫ったり、「極端に振れる」決定をしがち)といわれるものだ。

このようなショートカットな決定の仕方は、リスクはあるけれども、人間社会の発展に伴ってそうなってきたらしいということ。非合理だけれども「そこそこの決定」をするという意味では合理的・現実的とも考えられる、といわれているのだ。

「とりあえずの決定」(ヒューリステイック)に伴う「リスク」にどのように対処(予防)するかという、我々が知りたい解答はこの本に書いてないようだ(実は後半1/3は飛ばしながら読んだ。所謂、斜め読み)が、それは別の本を読めということか? 

とりあえず(笑)、「ヒューリステイックな決定」であること、簡単に言うと「仮決定」であることを自覚すること、常に新しい情報(データ)と比較検討すること。「ボトムライン」(変更条件)を明らかにしておくことくらいは必要なのだろう。

* * *

車を選ぶときも

もう一つ面白かったのは、車を選ぶときの心理だ。競合他社(車)との比較を、各項目(属性。性能とか安全性とか、スタイル、燃費など)で行ったりしているが、購入者が最も重視する属性に従って選んだ結果と多数の属性を検討して選んだ結果とほとんど変わらないそうだ。「単一決定ヒューリステイックス」という。このことはデイーラーのセールスマンも知っておいたほうがいいかもしれない(他車との比較などあまり関係がない?医療現場でもありうること?)。

感情

また、感情については「感情的になるな!」と言われるように、一般的には合理的な決定を阻害するかのように言われている。ところが、「決める」という行為自体が感情によって支えられているという。「感情」は「注意資源」を支配し、「注意資源」は知覚判断出力という認知過程や記憶とのやり取りの全てに関わっていることを考えるとなんとなく(ヒューリステイック?)納得できる,ね。

お断り:

「例」はこの本に載っていたわけでなく、私が思いついた例です)

 この読書録は「ヒューマンファクター講座番外5」と重なる記述があります。

 この文章は院内LANに載せたものです。

④ 2022.一部修正しました