別館 16 記憶はどこまで信用できるか

  “おまえは子供のころ防火用水に頭から落ちて死にかけた
~ 記憶はどこまで信用できるか ~

 事故やトラブルがおきたとき、当事者や関係者、目撃者にいろいろな話を聴取しなければならないことがある。そのとき、自分が見たこと、したこと、考えたこと(記憶)にずいぶん自信をもって主張する人がいる。一方、別の日に聞くと違うことを証言する人がいる。素人の私にはちょっと困るのだけど・・・・

“おまえは子供のころ防火用水に頭から落ちて死にかけた”と母親から聞いたことがある


 子供の頃「あちこちにあった「水瓶?」「防火用水?」(注)に頭から落ちて(注)おぼれた。母は何もできずに「助けてー!」と叫んだ。通りかかった男の人が助けてくれて、逆さに持ち上げられ背中を叩かれた(注)ら息を吹き返した」と母から何度か聞いたことがある。もちろんそんな記憶はなかったが、思い出すたびにその光景がまるで見ていたかのようにうかぶ。経済発展以前の「豊かでないころ」の街の風景(注)、裸電球の街灯、まで浮かんでくる。まるでNHKの「昭和のアーカイブ映像」(注)だ。

 ところがちょっと考えてみるとおかしいところが見つかる。
本当はこんな具体的な言葉で聞いたわけでない「防火用水」などといいうのも見たこともない。大人になってから付け加えた言葉だ。
確かに体がひょろひょろして「頭でっかち」とか「こけし」と言われていた
何歳なのだろう。逆さに持ち上げられて叩かれる、ということができる年代?
全くの想像。母は一言も周囲のことは言っていない。夜、とも言っていないが「薄暗い」印象。
後知恵というかTVか何かの映像を重ねている。

 「子供の頃の話で覚えているはずがない」と自分自身も自覚しているから、自分の想像で付け加えていたのだろうと冷静に分かるが、逆にもっと現在に近い(大人になってからの)出来事であったら、もっと確信を持って信じてしまうかもしれない。
 なぜ、こんな記憶がつくられてしまうのだろう。

記憶は薄れていく ~何かで補い、何かで強化し、繰り返し話すことで「強固」になる~


立教大学の芳賀繁先生は「絵で見る失敗の仕組み」(証言に気を付けよう)でこう言う。
 記憶の薄いところ、かけているところを「想像で補う」。「人から聞いた話を自分の経験と思い込み付け加える」。さらに他に話すようなことがあるとさらに自分の記憶として強化される。これが繰り返されると記憶は強化され「確信」となる。

ルンド大学のS.Dekker教授も人間の記憶が本来的に持つ特性のために歪められることがあるという。(S.デッカー 「ヒューマンエラーを理解する」「第2の被害者」)

 当事者たちから話を聞くことは悪くはないが、歪曲の可能性も多いに秘めている。歪曲の問題は意図的とか悪意があるというより、人間の記憶が本来的に持つ特性のために起こっている。
 その特性とは
・人間の記憶はビデオテープと違って、巻き戻してもう一度再生できるものではない
・人間の記憶は、複数の印象が非常に複雑な形で相互に結びついたネットワークである。現実のできごとと、後になって観察した手がかりがすぐにまじりあい、区別できなくなってしまう。
・人間の記憶は、実際の状況以上に出来事を順序立てて構成してしまう傾向がある。その結果、起きたことやその原因と経過の筋書きを、実際よりも整然と順序立て、納得しやすいものにしてしまう。

★東京成徳大学の海保博之先生もいう
・人の記憶系は、ハード的にもソフト的にも絶えず自己成長するし、絶え間なく入力されてくる情報によって、記憶情報の更新がおこる。まとめられたり、細部が隠され抽象的な概念にまとめられたり、そこに創発(正誤判断不能)、混同したり、細部消失などの記憶エラーが発生する。

 つまり、記憶と呼ばれているものは、「感覚器」を通って入力した情報が、頭の中(短期記憶とか長期記憶)にいったん貯蔵され、再構成された後に、出力されたもので、想起するときの主観的視点から過去の経験の素材をもとに再構成されたものなのである。再構成は事後の情報にも影響されるし、引き出し方によっても変化する。他の人の意見にも影響されやすく、同調の心理に意外と簡単におちいる。「話し合う」ことなども記憶に変容を与えてしまうのだ。後から周囲や記録に「あわせる」こともある。「後知恵」の解釈に似ている。(図は略
頭の中の短期メモリーから、長期メモリーに書き写され、保存される。保存されたものが、外界からの要求で短期メモリーに呼び出されたり、またしまい込まれる、ということを繰り返しをしている。「最初と同じ記憶が再現される事自体が奇跡に近い」のかもしれない。

目撃証言も似たようなもの

 じゃあ記憶じゃなく「私は見た!」という「目撃情報」なら信頼性はあがるのか、というとそうでもないらしい(同じく海保博之先生ら「安全安心の心理学」より)。
1)   フラッシュバルブ記憶:フラッシュをたいて(といっても若い人にはわからないか?)とった、「一枚の写真」のような感じ。衝撃の強い目撃だと「その一枚」だけを記憶してしまいがち。その一枚だけを根拠に前後も解釈してしまうことが多い。
「見ていた、というなら見ていなかったのはなにか?」といいたくなる(私)。
2)   後付け想起:それほど衝撃的なシーンの目撃でなくとも後付け想起というような特徴が挙げられている(海保博之ら)
    調和的編集:現在の自分の考えや感情と調和するように編集する
    変化編集:自分が変化した方向にふさわしいように思い出す。
    後知恵編集:結果がわかった現在にふさわしいように編集しがち。
    利己的編集:自分に都合のいいように思い出す。
    ステレオタイプ編集:世間一般の考えに合わせて思い出す。

悪意がないのがかえって困る? じゃあどうすればいいのか?


 意図的に嘘をついているのなら、嘘発見器でもいいし、いろんな物的証拠などで齟齬が明らかになる可能性がある。しかし、やっかいなのは悪意なく、信じ込んでしまっていることだ。
 私たちが関係者の話を聞く場合や聞かれる立場になったら、どうしたら良いのだろうか?
「記憶」というもの(目撃証言も同じ)の、特徴と限界を知ることで、少しでも記憶の変容があきらかになるのではないだろうか(あくまでも事故の調査であって刑事捜査ではありません)

1.(聞き取る側)
・調査の目的を明示すること。責任を探るのではない、という態度を明瞭に。
  ・原因を「特定」できなければそれでも良い、と割り切る。
・プロセスを考え「再発防止の可能性を探る」 ことができれば良い、と割り切る。
・時間軸を明瞭に、直線的つながりだけでなく、伏線も。物証も。

2. (聞かれる側)
・情報のソースモニタリング(それは、いつ、どこで、だれから得た情報か、自分で見たのか)。
・目撃した場合「直接目撃したこと」と「その後の事情聴取で言われたこと」「それに対して連想したこと」「答えたこと」などをその日のうちに記録整理しておく。そうでなければ時間がたつと思い出すたびに(あるいは聞かれるたびに)記憶の変容を起こしやすいのである。
・「人為性」の入りにくい客観的な物証(時間の刻印された切符やATMのレシート、モニターの記録、モニター機器のメモリー、など)。

3.(両者に必要な理解)
・「記憶はつくられる」し「変化する」を常識とする。
  ・相手の発言をむやみに否定したり、同調したりしない。
・聞く側が記憶の変化・再構成を誘導してしまうようなことをさける。
・調査者の描くストーリーにあてはめようとしない。

★参考までに刑事裁判の場合、米国の1/2から2/3は「目撃証言」できまり、日本のそれは「自白」(つまり「記憶」)だそうです。こんなに目撃も記憶もあやふや、あいまいなものなのに、ですね。


参考文献:
1.S.Dekker「ヒューマンエラーを理解する」「第2の被害者」
2.芳賀繁「絵で見る失敗の仕組み」など。
3.榎本博昭「記憶はウソをつく」:無実でも自白してしまう、といった冤罪が多い。取り調べと被疑者自身のやりとりによって記憶が作られ、書き換えられていく可能性を実例を挙げて解説。冤罪を作ってしまうような取り調べは我々の事故調査でも起こりうる。TEDにも目撃証言の信頼性のなさが公開。
4.桐野夏生「悪意」(講談社):「当時の記録」は証拠として絶対視されがち。しかし「記録は記録者の主観による事実」と考えることができる。記録があっても「記録=真実」とはいえない。

5.講座番外1515-3も参照。


この項 書きかけです

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